【世紀の大天才】ラマヌジャンの生い立ちと逸話!子孫(子供)はいる?

こんにちは。ラマです。

世界の数学者で、もっとも好きな人物は?と聞かれたら迷わずラマヌジャンと答えます。

ブログ上のHNである『ラマ』も、この偉大な数学者ラマヌジャンから取りました。

一般的にはそれほど有名ではないけど、数学が好きな人であれば誰もが知っている大天才がラマヌジャンです。

数の魔術師の異名をとった、その天才っぷりはまさに伝説。神の申し子と言っても過言ではないかもしれません。

今回は、私の一番好きな数学者であるシュリニヴァーサ・ラマヌジャンについて取り上げます。

ラマヌジャンってどんな数学者?何が凄いの?

ラマヌジャン

ラマヌジャンの凄さを一言でいうと、『ひらめき』です。

天才と言われる数学者は今までも数多くいましたが、本当の天才といえるのはラマヌジャンだけなのでは?と思っています。

彼の閃きは突拍子の無いものばかりで、天才過ぎて導いた結論までの過程を説明することができませんでした。ラマヌジャンにとっては、その結論が当たり前なので、導いた過程を説明しろと言われても説明できないわけです。

これは私達が『1+1=2であること』や『自分が人間であること』を説明してと言われているのと同じような感覚だったのかもしれません。

ラマヌジャンはインドのバラモンの家庭に生まれたので、幼い頃から敬虔なヒンドゥー教徒だったんです。そんなラマヌジャンは、数学上の偉大な発見をしたときに、『夢のなかでナーマギリ女神が教えてくれた』と言っていたようです。

ラマヌジャンでなければ発見できなかった偉大な発見が多数ある


▲ラマヌジャン直筆のノート

天才と聞いて真っ先に思い浮かぶのは誰でしょうか?きっと、多くの人にとって一般相対性理論を確立したアインシュタインは天才の代名詞的存在だと思います。

そんなアインシュタインが発見した相対性理論は、アインシュタインが確立しなくても数十年で他の物理学者が確立していたといわれています。

一方、ラマヌジャンの発見した公式や確立した理論というのは、ラマヌジャンがいなければ見つかることはなかったと言われているんです。

ラマヌジャンは「我々の100倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない」という天才なのである。

出典:『天才の栄光と挫折』藤原正彦(新潮選書)より

これはアインシュタインが天才ではないとか、偉大ではないということではなく、ラマヌジャンが別格なだけです。

実際、数学や物理学上の発見というものは、アインシュタインの相対性理論に限らず、そのほとんどが別の学者でも発見できたといわれているものです。

現代に伝わるラマヌジャンの天才ぶりが分かる逸話

ラマヌジャンの天才ぶりが見て取れる逸話をいくつか紹介します。

本格的な数学教育は一切受けていない


▲ラマヌジャンが実際に読んだ『純粋数学要覧』の原著

ラマヌジャンの家庭はとても貧しかったため、本格的な数学教育は一切受けられませんでした。

日本で言うところのいわゆる高校には進学したものの、学校の成績はかなり悪かったらしいです。(もちろん数学でさえも)

ラマヌジャンが数学を学んだ機会といえば、ジョージ・カー (George Shoobridge Carr)という数学の教師がたまたまラマヌジャンに手渡した『純粋数学要覧』という1冊の本くらいです。このときラマヌジャン15歳。(カーはケンブリッジ大学の数学科の学生を専門に請け負っていた家庭教師)

純粋数学要覧は、5000あまりの数学の公式や定理が羅列されているだけの本で、証明も説明もありません。文字通り、ただの羅列です。

これを見ただけで、将来数々の重要な発見をしていくというのは常人では考えられないでしょう。

15歳のラマヌジャンはこの純粋数学要覧に強い関心を持ち、貪りつくように読んだと言われています。このときに既に天才の片鱗が見えますね。

ハーディに送った手紙

ラマヌジャンが世界中から注目されるきっかけとなったのが1913年に送った手紙です。

このときラマヌジャンは26歳。マドラス郊外の港湾事務所の経理の仕事に就いて働く傍ら、1人で独自に数学の研究を進めていたと言われています。

周囲から『数学の天才かもしれない』、『インドの誇りになるかもしれない』と思われ始めていたラマヌジャンは、友人や知人から数学の権威がたくさんいるケンブリッジ大学に今までの研究成果を手紙で送るように薦められました。

ラマヌジャンは周りの薦めに従い、ケンブリッジ大学に手紙を出します。

しかし、結論しか書かれていないその手紙の内容を見て、多くの数学者たちは見向きもしません。(内容的にレベルが高すぎて理解できなかったとも言われている)

そんななかで、手紙に注目したのが大数学者ハーディです。歴史に名を残す偉大な数学者ハーディは、ラマヌジャンの手紙を読んでいくにつれ、『この手紙の差出人は本物の天才だ』と悟ります。

これを機に、ハーディはラマヌジャンはケンブリッジ大学に招待し、2人の共同研究がスタートしました。

非常に美しい円周率の公式

ラマヌジャンの発見した定理や公式は数知れませんが、そのなかでも円周率に関する公式は有名です。

今では一般的になっているモジュラー関数ですが、当時はその概念がありませんでした。そんな時代に、ラマヌジャンはモジュラー関数の概念を基礎として非常に美しい円周率の公式を発見したのです。

$$\frac{1}{π}=\frac{2\sqrt{2}}{99^2}\sum_{n=0}^{∞}{\frac{(4n)!(1103+26390n)}{(4^n99^nn!)^4}}$$

上がラマヌジャンの発見した円周率の公式です。この公式は数ある円周率の公式のなかでも非常に収束が早い公式であることが知られています。

一方、円周率の公式で有名なのがライプニッツ。彼も、ラマヌジャン同様、円周率の公式を発見しています。

$$\displaystyle {\frac {\pi }{4}}=1-{\frac {1}{3}}+{\frac {1}{5}}-{\frac {1}{7}}+{\frac {1}{9}}-\cdots = \sum _{n=0}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}}{2n+1}}$$

こちらがライプニッツの公式。ラマヌジャンの見つけた公式に比べると収束が遅く、円周率の値を求めるのには実際上適さないとされているものの、現代に受け継がれる素晴らしい発見であることは間違いありません。

この2つを比較して分かるのが、『ラマヌジャンの公式には必然性が全く見えてこない』ということです。

ライプニッツの公式の方は、この結論に至るまでの過程が想像できます。しかし、ラマヌジャンの公式の場合には必然性が全く見えません。どこからこのような式が出てきたのか?ということがまるで理解できないのです。

これは私達がそうだっただけでなく、当時の数学者たちにとっても同じでした。ラマヌジャンがなぜこのような式を次から次へと発想できるのか?不思議でたまらなかったことでしょう。

最も有名な逸話『タクシー数』

ラマヌジャン関連の逸話のなかでももっとも有名なものといえば、このタクシー数です。

以下Wikipediaよりエピソードを引用します。

1918年2月ごろ、ラマヌジャンは療養所に入っており、見舞いに来たハーディは次のようなことを言った。

「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」

これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言った。

「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」

実は、1729は次のように表すことができる。

1729 = 123 + 13 = 103 + 93

すなわち、1729が\( A=B^3+C^3=D^3+E^3 \)という形で表すことのできる数 A のうち最小のものであることを、ラマヌジャンは即座に指摘したのである。

この逸話はラマヌジャンの計算スピードが異常であったことを伝えるものです。1729という数字を聞いて、瞬時に上のような複雑な計算をすることができるでしょうか?まず凡人には不可能でしょう。

※この逸話自体は本当だと言われていますが、実は計算スピードがすごかったというよりも、ラマヌジャンはあらゆる数字の表現方法をすべて暗記していたのではないか?とも言われています。このあたりは今では知る由もないですが、いずれにしても普通ではありません。。。

ラマヌジャンの生い立ちと生涯

クンバコナム

ラマヌジャンは南インドにあるタミル・ナードゥ州というところで生まれました。敬虔なヒンドゥー教徒の家庭でした。

当時のインドは厳格なカースト制度があり、階級社会でした。ラマヌジャンはこのカースト制度における最上位階級のバラモンの家庭に生まれるものの、極貧でした。

カースト制度における階級というものは、あくまでも血筋などによって決められるものであり、階級が高いからといって富裕層であるとは限らなかったそうです。

そんなラマヌジャンは15歳のときに『純粋数学要覧』という公式集に出会い、数学に興味を持ちます。

しかし、学校の成績が悪く、試験などを受けても点数が取れないため進級さえも危ぶまれるほどだったそうです。

1913年に周りの勧めもあり、イギリスのケンブリッジ大学に研究成果を手紙で送ります。この研究成果に興味を持った数学者ハーディによってケンブリッジ大学に招待され、2人での共同研究を初めます。

証明をすることができないラマヌジャンの欠点をハーディが補うという形で研究は進み、最高のコンビと称されたこともありました。

ただ、厳格なバラモンの過程に生まれたラマヌジャンは、菜食主義であり、十分に栄養が取れていなかったことも祟って32歳で病を発症。この病が原因で、32歳という若さで亡くなりました。


ラマヌジャンの略歴

1887年 南インド・タミル・ナードゥ州タンジャーヴール県クンバコナムで生まれる
1902年 公式集『純粋数学要覧』に出会う
1906年 パッチャイヤッパル大学の奨学金を成績不振を理由に打ち切られ退学
1913年 ケンブリッジ大学に研究成果の手紙を送る
1914年 イギリスに渡英
1920年 結核、もしくはビタミン欠乏症、肝炎により死去。享年32歳。(死因は諸説あり)

子孫(子供)はいるのか?

これほどの大数学者なので、子孫は今でも生きているのかどうか?ということが話題にのぼることがよくあります。

確かに、ラマヌジャンのDNAを受け継ぐ子孫がいれば、それは素晴らしい数学者になっていても何の不思議も無いでしょう。

しかし、残念なことにラマヌジャンに子孫はいません。

ラマヌジャンは24歳のときにジャーナキという奥さんをもらいます。結婚相手のジャーナキはこのとき9歳という年齢で、現代の日本では信じられないかもしれませんが、当時のインドでは普通のことでした。

ラマヌジャンは32歳で亡くなるまで、ジャーナキと添い遂げるのですが、2人の間に子供はいませんでした。

そのため、現代に残る子孫はいないのです。

綿々と続く数学史に残こる超偉大な数学者だっただけに、DNAが受け継がれていないのはとても残念なことですね。

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